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歴史
名古屋城とは尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にある日本の城です。日本の100名城に選定されています。また、国の特別史跡に指定されています。城主は鎌倉時代後期から名古屋台地北部の那古野の地を領有していた今川氏の一族で、1521~1524年(大永年間)に城を築いたとされています。室町幕府が没落し戦乱の世となると、尾張守護代であった織田家の中でも、信長の父・織田信秀が台頭。1538年(天文7)頃、今川義元の弟・氏豊の居城だった那古野城を奪い取ります。その後、1546年(天文15)頃に古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居を移すと、信長に那古野城を譲りました。1555年(弘治元)、当時、尾張の中心だった清須城に信長が移ると、那古野城は信長の叔父にあたる信光が城主となります。信光が没すると、重臣である林秀貞(ひでさだ)の居城となり、 1582年(天正10)には廃城となりました。その後、信長は尾張統一を果たし、1560年(永禄3)、桶狭間の戦いに清須城から出陣。尾張に侵攻してきた今川義元に勝利します。そして小牧山城、岐阜城、近江の安土城に拠点を移しながら、天下統一に向けて勢力を伸ばしていきますが、1582年(天正10)、本能寺の変によって没し、豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられることになりました。しかし、1598年(慶長3)、秀吉が伏見城に没すると、天下の情勢は豊臣方と徳川方に二分される事態に。そして1600年(慶長5)、天下分け目の関ヶ原の合戦により、徳川方が豊臣方に勝利しました。信長が小牧城に移った後、清須城には信長の次男・信雄(のぶかつ)、秀吉の甥・秀次、福島正則が入り、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、四男・松平忠吉、九男・義直を入城させます。当時まだ大坂には秀吉の子・秀頼が城を構えており、家康は秀頼や豊臣家の家臣を牽制するために、尾張の守りを重視していました。いずれ豊臣方と戦う日に備えて大坂と江戸を結ぶ東海道の防衛を固めておかなければならず、その中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要があったのです。それは巨大な軍事要塞でもあった名古屋城築城へとつながっていきます。最近では2009年に本丸御殿復元工事着工(1月19日、起工式)が行われ、2018年に工事が完了し、公開されました。
地名の由来
名古屋の由来には、気候・風土がなごやかな土地の意味とする説。崩壊地形を表す「なご」に、湿気を表す「や」で「崖下の湿地」の意味とする説など諸説あります。
おすすめポイント
名古屋城でじっくり見てほしいポイントの一つが、城の防御力を鉄壁にしてきた石垣です。徳川家康は、全国20の大名に石垣工事を進めさせました。中でも卓越した石積技術を持った加藤清正の貢献は大きかったと言われています。本丸御殿の一部であり、将軍のお風呂場にあたる「湯殿書院」と、家康の宿を移築したと伝えられている「黒木書院」も、上洛殿と同じ2018年6月から公開が始まった注目のスポットです。
住所・アクセス
地下鉄市役所駅から徒歩で5分
名古屋高速都心環状線「丸の内」から車で5分(出口から北へ)