姫路城

姫路城

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歴史

姫路城とは、兵庫県姫路市にある日本の城です。国宝や重要文化財に指定されています。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されています。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されています。姫路城は、播磨の守護、元徳3年(1331)、赤松則村が砦を築いたのがはじまり。その子、貞範が正平3年(1348)頃に、居城として築城した。その後、室町時代を通して赤松氏の城で、その家臣、小寺氏が入っていた。天文14年(1545)、小寺氏は御着に新たに城を築き(御着城)、姫路城には、小寺氏の家臣、黒田職隆が入った。天正5年(1577)、信長の命で秀吉が、三木城別所氏を滅ぼし、姫路城に入り、3層の天守閣を築いた。秀吉が姫路城に入ることができたのは、黒田官兵衛、後の如水によるものである。この姫路城を拠点に中国の毛利勢と戦うことになる。天正10年(1582)、本能寺の変が起こり、秀吉がこの姫路城を経由し、山崎まで向かったのは言うまでもない。世に言う中国大返しである。秀吉は後、大坂城を居城とし、姫路城には、秀長、ついで木下定家を入封させた。慶長5年には関ヶ原の戦いが起こり池田輝政に播磨国52万石余が与えられる。慶長6年に池田輝政が姫路城の築城工事を始める。1617年には本多忠政が入城し、その息子忠刻には家康の孫娘千姫が嫁ぎました。このころ城の全容が完成しています。江戸時代の姫路城はその後、本多氏や奥平松平氏、越前松平氏、榊原氏などの譜代大名が姫路城城主を歴任します。1749年には酒井忠恭が城主に就任し、以後酒井氏が10代に渡って姫路城城主を務めました。江戸時代の姫路城城主は、徳川四天王に始まる譜代大名の家柄が務めていることから、姫路城が西国の要衝であるという性格を物語っています。なお、姫路城の最後の城主は酒井忠邦という人物です。彼は江戸幕府で大老を排出した酒井家の当主で、養父にあたる酒井忠惇が新政府軍と戦った事から朝敵扱いされた姫路藩を救うため、譜代大名家という立場でありながら新政府軍と融和を図るため、献金や家臣の処分を断行しています。明治政府が行った中央集権化政策の一つである版籍奉還も、忠邦の発案によるものでした。1869年の版籍奉還により国有の城となりました。2009~2015年にかけては「平成の大修理」が行われ、建造当時の白さを再現した姿となり話題を集めました。

地名の由来

「姫路城」という名前は、城が建つ土地の古名が由来していると伝えられています。姫路城の天守閣がある姫山(ひめやま)は古く「日女地(ひめじ)の丘」と呼ばれていたことから、この名前になったとするのが通説です。

おすすめポイント

姫路城は、豊かな自然に囲まれており、四季折々にさまざまな表情を見せてくれます。春は桜とともにうららかな風景を、夏は青々とした新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、オールシーズン味わい深い景色を楽しむことができます。そして姫路城の敷地はとても広大。内曲輪(うちくるわ)と呼ばれる内堀の中の敷地面積はおよそ23ヘクタール。東京ドーム約5個分という広さがあります。その中の約半分ほどの敷地は、現在公園として整備されていて、だれでも無料で入ることが可能。そして内曲輪の中でも天守閣を中心とする北側半分のエリアが有料エリアとなっています。好古園(こうこえん)は、姫路城の南西に位置し、姫路城のある姫路公園内にある日本庭園です。姫路市制100周年を記念して、1992年(平成2年)に開園しました。姫路城西御屋敷や武家屋敷などの遺構を生かしてつくられたもので、姫路城天守を借景とする回遊式庭園群です。全部で9つの日本庭園があり、総面積は約3.5ヘクタールに及びます。日本の風情ある文化を感じることができます。

住所・アクセス

〒670-0012 兵庫県姫路市本町68 

JR姫路駅、山陽姫路駅から徒歩約20分

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