歴史
弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城です。江戸時代に入るまでのお城は軍事拠点としての役割を持っていましたが、江戸幕府から発令された『一国一城令』以降は藩の政治中枢として機能していきます。この法令の背景には外様大名を含めた元戦国大名の力を弱め徳川家の支配力を強める狙いもあり、これ以降の築城や改築改装などは全て幕府からの許可が必要でした。まだ徳川幕府の政治が安定し天下泰平と呼ばれる時代になるまでは、各お城の主はいつでも戦になっても良いように、様々な理由をつけて出来る範囲でお城の軍備強化を行っていました。1603(慶長8)年には徳川幕府の成立とともに外様大名のひとりとして津軽領有を承認され、高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め、城の築城を計画するに至ります。その後、為信は高岡城の完成を見ることなく1607(慶長12)年に長男・信建の後を追うように58歳で病没、二男の信堅はすでに死亡していたことから3男・信枚(信牧)が為信の後を継ぎました。信枚は1611(慶長16)年に徳川家康の養女・満天姫を正室に迎えて3年後の大阪冬の陣に3000余りの兵を率いて参加するなど、幕府と密接な関係を結んで藩政の基礎を築きました。1631(寛永8)年に藩主・信枚が没すると、信枚の長男・信義が3代目藩主として弘前を治め、信枚の後を受けて藩政の創成にあたります。弘前藩の藩政、諸制度の確立は4代藩主・信政の時代に完成されたと言われています。
地名の由来
由来のひとつには、北海道への海上交通の要地で、その地勢が広大なところから「広崎」と呼び、それが「弘前」になったという説や、十三岬から松前(北海道)までの海を「尾閭(びろ)」と呼び、十三岬を「尾閭ヶ崎」と呼んでいたのをとって「弘前」としたという説のほか、イギリス人チェンバレンが唱えたアイヌ語に起源があるという考え方などがありますが、いずれも明らかではありません。
おすすめポイント
弘前城歴史跡コースが用意されており、初心者の方でも安心です。弘前公園内の天守・櫓・門・橋を全て巡ることができるルートです。また、公園からほど近い位置にある武家屋敷も観覧することができます。追手門から入城して本丸へ向かい、武家屋敷のある仲町へと出ます。その後、亀甲門(北門)から再び園内に入り、東門へと抜けるルートとなっております。弘前公園内の主な遺構をすべて見て回ることができるコースなので弘前城をゆっくり楽しみたい方におすすめです。また春には桜も楽しめるスポットとなっています。
住所・アクセス
JR奥羽本線・弘前駅から土手町循環100円バスに乗り「市役所前」下車、徒歩3分
弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅から徒歩10分