熊本城

熊本城

出典:stat.ameba.jp

歴史

熊本城(くまもとじょう)は、肥後国飽田郡熊本(現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。肥後の領主であった加藤清正。清正は秀吉に従い、天正10年(1582)「山崎の戦い」と翌年の「賤ヶ岳の戦い」で武勲を立てると、賤ヶ岳の七本槍の一人として、3,000石の所領を与えられました。天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、清正も従五位下・主計頭を叙任。天正14年(1586)には秀吉の九州平定に参加し、当時の肥後国領主だった佐々成政が失脚すると、この後を任され隈本城、のちの熊本城に入りました。その後、加藤清正の子である忠広が改易、細川忠利が熊本城の城主になります。それまでの間に何度か地震などで壊れている部分があった為、細川氏は徳川幕府に熊本城の改修を願い出ます。明治維新後に熊本藩の実権を握った実学党は熊本城の解体を明治政府に申請し、許可されています。しかし熊本城の解体は反対にあって凍結され、城内は天守を含めて一般公開されました。廃藩置県(1871年)後には二の丸に熊本県庁が置かれていました。熊本城はのちに陸軍の所管となり歩兵、砲兵部隊が置かれ、病院も建設されました。明治に制定された廃刀令への反対運動から起きた「神風連の乱」は熊本で起きています。元武士だった人たちが熊本城を襲撃するも、失敗。1日で鎮圧されています。その後1877年、西南戦争が起こり、西郷隆盛が率いる西郷軍によって熊本城の多くの建造物が焼失します。昭和になると熊本城内の建物も老朽化のために修復が必要になってきていました。西南戦争50周年事業として1927年に、寄付金を集めて宇土櫓の解体修理が行われています。1933年には宇土櫓など13棟が旧国宝に、城跡が史跡に指定されています。西南戦争で焼失した天守の再建は、戦前の1928年に市議会で満場一致で決議されています。太平洋戦争をはさんで、1960年に古写真などをもとに大天守と小天守を再建。平成になると数寄屋丸二階御広間をはじめとして、戌亥(いぬい)櫓、未申(ひつじさる)櫓、飯田丸五階櫓、本丸御殿大広間などが復元されていきました。

地名の由来

熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれており、これは場内にいちょうの木が植えられていることから付けられました。これは、籠城する時のために加藤清正が植えたと言われています。

おすすめポイント

近世の城郭のシンボルともいえる天守。熊本城にも立派な天守があります。熊本城天守の最大の特徴は、大小2つの天守からなっていること。四面には千鳥破風(ちどりはふ)という建築技法がほどこされ、最上階の南北には唐破風(からはふ)と呼ばれる建築技法を使っています。武者返し”の異名を持つ石垣は圧巻。反り返ったその姿は、堅牢たる中世の要塞は象徴する。城内に一歩足を踏み入れれば、勇壮で華麗な佇まいに思わず息を飲む。一方で、細やかな創意工夫も随所に見られる。熊本城は、一日中歩き回っても飽きることなく楽しめると思います。

住所・アクセス

〒860-0002  熊本県熊本市中央区本丸1-1 

熊本駅から花畑町まで電車で15分 

花畑町から徒歩5分

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