若松城

若松城

出典:stat.ameba.jp

歴史

若松城(わかまつじょう)とは、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれるが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。会津若松城は、鎌倉時代、会津の領主だった葦名氏に始まります。4代泰盛(やすもり)の頃に葦名氏は領地支配を強化し、会津入りします。小田山山ろく(宝積寺が最初の館の可能性あり)か小田垣(小高木)に館を構え、いざという時に立て籠もる詰めの城・山城として「小田山城」を築きます。南北朝時代、会津周辺は南朝方に取り囲まれていたものの一貫して北朝方の拠点として貫きます。文和3年(1354)には、『旧事雑考』『富田家年譜』によると、7代直盛(なおもり)が小田垣に館を構え小田山城を築き、現在の若松城付近にも黒川城を築きます。葦名氏は会津一円をほぼ支配下に収め、佐竹氏や伊達氏と戦ったが、内紛が起こり、それを見逃さなかった伊達政宗が、天正17年(1589)、会津に侵攻、葦名氏は敗れた。葦名氏は直盛から数えると14代で会津支配を終える。天正17年(1589)5月、会津は伊達正宗の領土となった。伊達政宗は、まず、山城の向羽黒山城を半年かけて改修し、天正18年2月からは、『伊達天正日記』によると黒川城の改修を始め、町人までも動員し、石垣を積んほど大改修をしています。伊達政宗の毒殺事件は、『伊達治家記録』によると西出丸にあった西御殿で起きています。豊臣秀吉は、天正18年(1590)8月、政宗に代わり蒲生氏郷を会津に据えます。蒲生氏郷は、会津漆器をはじめ、商業にも力を入れ、近江から味噌、醤油、酒造などを持ち込んだ。会津の形成に手腕を振るった氏郷だったが、文禄4年(1595)、肥前名護屋城で発病し、40歳でこの世を去る。その後は、氏郷の子、秀行が13歳の若さで後を継ぐが宇都宮に転封し、慶長3年(1598)、上杉景勝が、120万石で会津に入封し豊臣政権の五大老となる。景勝は最後の砦となる向羽黒山城を2年間かけて大改修し、朝鮮半島の熊川倭城に似た城に改修します。そして、蒲生氏郷も現在の若松城の地では不利で経済発展がしにくい事を、景勝も同じであり、氏郷が希望した広島城に似た新城の「神指城」築城を慶長5年(1600)に着手します。『塔寺長帳』には13村を移転して事が書かれています。しかし、景勝は石田三成方であったことから家康の標的になり、4万5千の大軍で栃木県の小山まで進んできますが、三成が兵を上げたので、家康は西に戻り関ヶ原の戦いなったのです。この時、景勝は国境に大規模な防塁を多数築いています。神指城は、石垣や門まで造られますが、完成することなく、慶長6年に破城されます。そして、宇都宮から再び蒲生秀行が会津に入り、若松城を居城とするようになります。秀行や3代忠郷は、石垣や堀を含め城の改修を進めていますが、慶長16年(1611)には、会津盆地西部を震源とする大地震が発生し、城の石垣や天守閣が傾いています。秀行は、地震の翌年、死去しています。

地名の由来

国史跡にも「若松城」の名で指定されていますが、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれています。由来は、会津若松城の大改修を行った蒲生氏郷が、自身の幼名である「鶴千代」から「鶴」の字を引用したといわれています。

おすすめポイント

鶴ヶ城のしゃちほこは銀でできています。鯱は、街を火事から守る守り神として大切にされてきました。 昔は、鯱も材木で作られていましたが、今の銀のしゃちほこは鶴ヶ城再建にあわせ地元の施工業者から寄贈されたものです。 なんと目は2カラットのダイヤモンドでできています。またNHKドラマ「八重の桜」の舞台となった鶴ヶ城。綾瀬はるかさん演じるヒロインが城内部から場外の敵に向けて鉄砲を撃っていたシーンの鉄砲狭間をみることができます。昭和になってから鉄筋コンクリートで再建された鶴ヶ城には、昔の鉄砲狭間は残されていませんが、城の中の南走長屋には人形で鉄砲狭間の使い方を解説したスペースがあり、当時の使い方が解るようになっています。他にも当時の貯蔵庫や、NHK大河ドラマで使用された衣装などが展示されており、昔の様子が具体的に わかる工夫がされています。

住所・アクセス

〒965-0873  福島県会津若松市追手町1-1  

会津若松駅からバスで10分

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